• ゲスト発言

第222回J.I.フォーラム「今こそ文系学部の強化を」  2016/03/23(水)開催
ゲスト
芳賀 徹 (静岡県立美術館 館長、元京都造形芸術大学 学長)

益川 敏英 (京都大学 名誉教授、京都産業大学益川塾 塾頭、ノーベル物理学賞受賞者)   

コーディネーター : 加藤 秀樹(構想日本代表)      

【議事概要】第222回 J.I.フォーラム」

「今こそ文系学部の強化を」

日:2016323

於:アルカディア市ヶ谷 6階「伊吹」

 

<ゲスト>

芳賀徹 (静岡県立美術館 館長、元京都造形芸術大学 学長)

益川敏英 (京都大学 名誉教授、京都産業大学益川塾 塾頭、ノーベル物理学賞受賞者)

 

<コーディネーター>

加藤秀樹 (構想日本 代表)

 

<概要>

222J.I.フォーラム「今こそ文系学部の強化を」では、静岡県立美術館館長の芳賀徹氏、ノーベル物理学賞受賞者の益川敏英氏の2名をゲストに迎え、文系学問の本来の意義、役割について整理し、現在の文系学部に欠けているもの、強化するべきことなどについて議論しました。

 

加藤 今回のテーマは、『今こそ文系学部の強化を』というわけですが、昨年、文系学部は大いに整理しようという政府、文部省の方針が出ました。これは、大学のかなり強い反発があって、その結果、ある種の撤回に近い状況にはなったんですけど、ただ、それは表面的なことであって実際にはどんどん進んでいます。正確な報道は出ていませんが、色んな方面で学問、研究がかなり曲がった感じになっています。確かに、文部省のいうことも一理あって、日本の文系学部がちゃんと機能していないのは事実です。しかし、機能していないのと必要じゃないというのは全くの別の話ですから、それがロジックに整理できていない文部省の役人がいること自体がこの文系学部が本当に必要だということになるのではないかと私は思います。

 

芳賀 私は文科系しか学ばなかった人間でありまして、私の父親も文科系でありましたため、初めから文科系に行くものだと思い込んで、その道をたどってきました。昭和23年、旧制高校に入り、すぐに新制大学に改変されまして、もう一度試験を受けて教養学部に進みました。その教養学部の3年生からは、同学部内に創設された教養学科(Department of Liberal Arts)に進みました。教養学科で学んだことは私のこれまでの研究者、教育者としての一番大事な基本の力になってくれたんだと思っています。フランス分科の前田陽一先生は、いきなりフランス語でパスカルのパンセを読ませ、フランス語で発表させた。ぎゅうぎゅうに締めつけられました。

そういう勉強が我々を「教養学士」という前代未聞の名のもとに、教養(Liberal Arts)が専門の研究者に仕立ててくれました。大学院ではこれも眞新しい比較文学、比較文化をやりました。やがて、博士課程に入りたての時、フランス政府給費留学生としてパリに留学しました。そこでいろんな偶然が作用して私を本物の文科系の人間にしてくれたわけです。1つの偶然は、パリの日本館で当時最前衛の日欧米の画家たちと交流したことです。同じように偶然の作用が働き自分のキャリアが決まったのは、フランス留学から帰ってきて、東京大学の史料編纂所で幕末のフランス外交文書の目録をつくるアルバイトをしたことです。幕末の外交が面白いものだと知りました。明治という時代はすごい時代だということに気づきました。明治日本の各分野の指導者たちがどういう風に西洋に学んだのか、彼らは皆、江戸時代に育って教育され、訓練された人たちで、徳川というのはえらいのではないかと考え、研究の関心は明治の第一の原動力となった江戸時代に向かっていった。比較文学、比較文化の視点で見れば、日本の近世近代文化史にはまだ発見されていないことが沢山あります。大学には寛容さ、度量の広さが必要ですね。

 

益川 日本人は比較的、自分の専門を決めてかかるところがありますが、私は面白ければ何でもいいと思います。私の学生時代は60年代の安保闘争のさなかで、学生同士で集まって議論するときにマルクス、ヘーゲル、エンゲルぐらい語れないと馬鹿にされる。文系学部ではなく、文系も科学なんですね。20世紀までは、学問を細かく分けていたが、21世紀の学問は個々の学問が成熟し、隣の分野にも手を出すことができる様になった。色んな学問の融合を図るのが21世紀の1つの特徴だと思います。そういう時に、文系学部をなくせというのはどういうことか、これは、非常に小手先だけである。私は素粒子の研究をしていますが、学問は未知のことをターゲットにしていて、基礎理論から複雑なものを解析していくという手法をとるわけでして、我々は知らないものを探している。ということはある程度、予測を立てないといけない。そういう時には個々の人間の考え方がものすごく影響している。そういうことで私は、60年代安保で、マルクス、ヘーゲルぐらい読んでないといけないという環境で育ちました。無駄なことだとは思いませんでした。文系の学問を強化することより、色んな学問の融合を図る必要があると思います。

 

加藤 先ほどおっしゃっていた科学の知らないものを探す、その時にある程度予測を立てる、その時に哲学が必要なのはなぜですか。

 

益川 哲学というのは、人間の体系した知識の総体だと思うんですね。だから、先人がどういう具合に自然を見てきたのかをまとめるというのは、非常に重要であります。」

「間違った哲学を信じたら、間違った方にずるずると引っ張られていく。だから、他の分野でもセンス良く読む必要がある。

 

芳賀 自分で面白いというような哲学を見つけていくのが難しい。あれやこれやと雑読し、いつのまにか見つけてゆく以外にない。

 

加藤 芳賀先生も益川先生も同じことをおっしゃっています。さっき大学の寮の中にはいろんなことをやっている学生がいて、最初に芳賀先生がおっしゃったのも、東大の教養学部、教養学科はできたばっかりでいろんな先生がいて、パリの日本館、広いところで良い施設だと思います。そういう場所が今はあまりない。仮にあっても、学生はスマホを見てますから、隣に誰がいても自分の中に閉じこもっているのかもわからない。なんかそういういろんなものが多様であるということは、一つ大事なのかな。それとイギリスの古い大学の出身者がよく言うのは、先生は教えてくれない。ほとんどが、個別レッスンなんですね。まず、先生から出されるのは、テーマである。そうすると何をやったらいいかわからないから、まず図書館に行く。図書館に行くと、何十冊ものいろんな本があって、何を読んだらいいかわからない。適当に5,6読んで、自分なりにそのテーマのことを考える。次に何週間かして、また先生と議論する。イギリスの学生は、怖いというんですね。なぜかというと、まず先生に、このテーマでお前はどういう本を選んだかということを聞かれる。自分が選んだ5,6冊が的ハズレだと、それで終わり。当たっていれば次に行く。だから自分でどんどん考えて、神経を研ぎ澄ませて、何が本質にあるかということを常に考えてないと、先に進めないというトレーニングなんですね。ですからこれは、文系であろうが、理系であろうが同じことで大事なんでしょうけど、やっぱりそこにさっき益川先生がおっしゃった、予測をつけようと思ったらそこに哲学がいるという、哲学のスタートの考える視点が常に試されている部分が教育のスタートにあるのかなと思いながら伺っていました。

 

芳賀 私は、自分の研究を始める時に、参考書が5冊も620冊もあって、それを見ないと論文が書けないのではつまんないと思っています。自分で見つけたテーマでまず論文を書いちゃって、それからあとに先行研究があることに気付いて、それらをちらっとのぞく。すると大概視野が狭くてつまらない。それでもいかにも読んだ顔をして参考文献に載せておく。その方がオリジナリティが出る。参考文献が先行すると、自分独自の見かた、発想がみんな潰されてしまう。テキスト、資料そのものを最初に読む。それから自分で面白いテーマを見つけて書いていく。その方が冒険があり、発見があって愉快ですよ。

 

加藤 統合が必要だという時に、統合というと何かいろんなものを集めてきて、集めてきただけでは統合されないですよね。その時に統合するものが哲学ということですか。

 

芳賀 今までつながりがないと考えられていたことの間に、連想力によって、あるいは調査によって、つながりを見つけるということですよ。

 

芳賀 外国の詩を読んだり、美術作品、芝居を見たりする際に、その国の言葉でまず読んでみると、我々の感性と違うことに気がつくことが多い。知性だけではなくて感性の深部で共通でないと本当のグローバルにはならないのではないか。政治や経済や物理ではグローバルになりうる。文科系になるとそうではない。感性が違うことをまず自覚しなければならない。そのためには、外国語をたくさん勉強する。さっき益川先生がおっしゃったように、なぜこうなったのかということをしっかり考えなければならない。考えているうちに差異をこえたヒューマニティの普遍性がはじめて見えてくる。そのためにも外国の詩や小説を、あるいは自国の古典を、一語一語辞書引きながら勉強するのはとても大切なことなんですね。

頭を開発していくことが大切。一語一語玩味しながらいくことが大事で、そうすると初めて外国語の面白み、我々との違うところが面白い、それが人類の眞の豊かさをなしているということに気がついていく。そうすると外国の文化の豊かさ、偉大さに対する敬愛の念が生まれる。習近平主席の言動はあやしくても、中国古典の詩や絵画の偉大さは否定しようもない。プーチン氏はこわいけど、19世紀ロシア文学は私たちにも圧倒的な人間の智の宝庫だった。そこまで行って本当の国際理解になる。相互の敬愛の念に根ざす国際交流となり、グローバリゼーションとなる。しかし、もちろんなかなか難しい。新しい文科系の大学は基本的に外国語学習であり、人文(humanities)の古典講読であり、内外の歴史研究であるべきでしょう。

 

加藤 特に物理学なんかだと、数式というのは共通ですよね。ただそれでも、数式で考えていくときに、文化、発想の違いみたいなのは感じられることはありますか。

 

益川氏 個性の違いの方が大きいですね。

加藤 私なんかそう言われても何のことか想像もできないですけど、例えば、数式で考えていく際の個性の違いが出てくるとはどういうことなんですか。

 

益川 数式は思考の結果なんですね、そこに至るには研究者の個性がものすごく効いてくる。

 

芳賀 我々文科系は、個性しかない。」

 

質問者① 芳賀先生にお聞きしたいんですけど、先生の領域で、文理融合など日本の学問体系の理想の姿を教えてください。

 

芳賀 江戸時代の学問は、新井白石、荻生徂徠、本居宣長、杉田玄白、三浦梅園と挙げてみて下さい。みんな哲学、文学、歴史など非常に高いレベルで総合的にやっている。文科の方が多いけど、理科系だってちゃんと医学も数学も博物学も天文学も始めているわけです。蘭学もあれだけ素早く受け取って、それを西洋学まで広げて、ああいう政治経済に渡る学問、軍事におよぶ学問もある。だから徳川日本の学問はなかなか総合力のある偉大な達成でありまして、本当に天才が輩出して、文化勲章なんて何十人ももらえたような時代です。

 

質問者② 日本の漫画、アニメは、沢山の人が何十年何百年先でも触れられるように系統立てておくことは、すごく大事な今の仕事だと思います。また、理系の方においても、これからどんな部分の科学でわくわくするか聞かせていただきたいです。

 

(科学の質問に関して)

 

益川 今存在する分野の人はわくわくしてやっていると思うんだけど。わくわくしていないでやっているのは金儲け。だから、お金の話が出てきたんでちょっとしますと、学問が非常にナイーブなものでなくなってきたんですね。とんでもない国家予算にまで及ぶような学問もある。それに政府は唯々諾々としてお金を出す。そういう側面が科学にはあるんですね。私は必ずしも悪いことであるとは言わない。

 

芳賀 いまマスコミも官僚もすぐ口にする社会のニーズに答える学問ってやつですか。

 

益川 素粒子分野っていうのは、金食い虫で実験の方は本当に国家予算に響くようなお金を使っています。しかし、必ずしも日本一国で決めてるわけではなくて、国際的にこれぐらいのものを担ってくれっていうような要請があって、政府にその要求を出している。そういう側面はある。当然のことに理系であろうと文系であろうと、必ず学問というのは、データを与えられてそれを解析して、理論になるかどうかは別にして、予測を立ててまた実験をするという流れを組むわけですから、必ずお金がかかる。だから、それである程度データをとり切ったら、それを前よりも大規模にお金をかけてデータ集めをせざるをえない。だから、学問も大型化せざるをえない。それに対して何らかの手を打たなければならない事態になっているのだと私は思います。

 

加藤 今の話は、国家運営をやってく上で経済成長が必要だ、経済成長をするための大きな要素が技術、それをやろうと思ったら非常にお金がかかるという流れなんですね。ですから、文科省の今回の方針も同じなんですね、だから、技術の前の科学もつなげていこうとしたらこれも非常にお金がかかるわけで、全てオリンピックになるというわけです。そういうのがいいのか、どっかで検証しないといけないというのは益川先生のおっしゃる通りだと思いますね。本来のわくわくからすごく離れたものになってしまっているという面はあると思います。

 

(質問者②の前半の日本の漫画、アニメの質問に対して)

 

芳賀 私は今の漫画をほとんど読んだことがなくて、アニメもあまり知らないんですよね。今、漫画、アニメが日本の文化の代表みたいに言われるのは困る。能も歌舞伎も俳句も盛んだし、日本画も油絵も建築もデザインも優秀なんですから。

 

加藤 私は外国に日本の文化のある部分を有効に伝える手段として今の漫画、アニメは機能していると思います。サブカルチャーの1つの側面としては非常に大事だと思います。ただ、今は、サブカルチャーとか前衛というのがビジネスになっている。ですからわたしは、そういう意味であれはサブカルチャーでも前衛でもなく、ただビジネスの一端だと思っています。

 

質問者③ 今の高校の大学入学前の入り口としての教育のあり方を伺いたいと思います。」

 

益川 文系理系はそれほど違わないと思うんですね。日本では自分は理系の学部を出たから理系の人間と思い込んでしまっている。もう少し柔軟に理解する必要がある。人生で、大学までの22年間というのはたいしたことない。そのあともっとたくさんの経験を積む。いろんなことを処理しないといけない。日本の受験制度に関係あるのかも分かりませんけど、レッテルを貼りすぎるのだと思います。おもしろいものはおもしろい。自分の趣味、興味というものを幅広く持っても生きられるような社会であってほしいと思いますし、それは決してマイナスではない。

 

芳賀 何でも能率の良いことを求めている。社会のニーズに答えるということが私は大嫌い。社会のニーズが出てきてそれを追いかけるのでは遅い。自分が面白いと思った時には社会のニーズはある。だからこちらが先に社会のニーズを掘り起こしていくようでないといけない。

 

質問者④ 最近ショッキングだったのが、ある有名大学での経済学の講義で、学生から数式を使わないように言われました。そのような学生をどうやって鍛え直したらいいですか。

 

益川 同じような話を医学部の先生から聞きました。『医学部だから当然生物を取ってきてくれているんだろうと思っていたら、医学部に入るような生徒はあらゆる科目で優秀な成績をとらなければならない。数学のほうが出来る学生にとっては物理、化学のほうが生物より簡単なんですね。そのため物理、化学ばかり勉強していて、生物を取らなかった高校生が多い。だからその医学部では入学前教育といって生物を教えているという話を聞きました。』だからすべてを考えていくと入試制度に関係しているんですね。

 

加藤 勉強するとか研究するとか教育するとかということと、入試が今や別の話になってしまった。入試自体は、大学にとってかなり大きな収益事業となって、ある程度定員がどうであろうと沢山きてほしいわけですよね。そのためには科目数を減らして、受けやすくすると言ったようなことをする。それに対して、中身が分かっているかというよりも、テクニカルにどうやって答えをうまく書いていくかという技術を身につけさせるという受験産業のニーズですよね。大学と塾という大きい受験産業、受験する高校生たちも科目が少なくなって勉強せずにすんだ方がいいですから、まさに、三者のしたいことが一致したところが今、出てきているんでしょうね。ですから、大学が入学前の勉強をさせると言うのも防衛手段としてはいびつですね。

 

芳賀 難しい試験を出して答えさせるエリートの大学とノンエリートで楽に勉強しようと入ってくる中間の大学と別にしたらいい。格差は悪いことではなく、しょうがない。

 

加藤 そこになってくると、今の大学というのは何するのか、文科省の議論よりももっと本質的な議論であると私は思います。

 

益川 (芳賀氏の意見に対して)ごもっともな意見なんですが、研究者の適性は学部ぐらいではわからないと思います。研究者でも、本当にいい研究者というのは、記憶力じゃなくて、ずっと考え込むような人。一つの問題にずっと考えられる人は、普通は落ちこぼれるんです。そういう人を見つけるのは我々の分野でいいますと、大学院を出たぐらいでないとわからない。

 

加藤 最後に一言ずつ両先生から伺いたいです。

 

芳賀 先ほども言いましたように、一つか二つぐらい外国語をやって、徹底してその国の文学作品などを読んで、その国の人々の感受性と思想、要するに人々の感じ方、考え方の根元にあるところまでいってみたい。その上でその国の文化に敬愛の念を持つというのが、本当の国際化の根本になる。国際交流になり、国際的な理解につながる。目前の社会のニーズに答えるような学問は大学でやらなくてもいい。大学でやるのは20年後、30年後に膨らんでくるような一国の文明の基本に触れるようなもの。歴史、宗教、芸術を通して外国への敬愛の念を養う、自国の文明についても、もちろん同じですね。そういう姿勢がこれから国際化やグローバリゼーションの世界の中で非常に大事であろう。社会のニーズに答える必要な人が、そんなのろまな鈍いことをやっている暇はない、と少なくとも人文系は開き直りましょうよ。

 

加藤 さっきから芳賀先生が『ニーズという言葉が嫌い』と何回かおっしゃっている。その前に先ほど益川先生が『少人数で、大学院にまで行かないと能力や適性がわからない』とおっしゃっていた。それはある意味ではすぐには役に立ちそうにない、逆に役に立ちそうにない人間の中にも、今のニーズに答えるという意味では役に立たないが、何十年も経ったらある意味すごく大きな意味で役に立つかもわからない可能性があるわけですよね。今はそういう環境が整っていない。

 

益川 今大学で起こっている一番大きな問題は、競争的資金という言葉があるんですけど、日銭を稼ぐために忙しくなっている。プロジェクトを出すのに5年単位であっても、毎年毎年中間報告を書かなければならない。研究者を取り囲む環境に余裕がない。それを私はもう少し、夢見たいなものを考えてもらわなくちゃ困るんじゃないかなと思います。

 

加藤 益川先生のおっしゃった競争的資金は象徴的ですね。競争的資金が大きくクローズアップされたのは、小泉政権の時です。そしてアメリカが例として示された。しかし、金額的にみると、アメリカでは競争的資金を集めるのは全体の中でそう大きくないが、日本はすごく大きくなった。一方で、いわゆる運営費交付金という大学に対する基礎的な運営するための資金がどんどん絞られている。構想日本で仕分けをやった。スパコンは1200億円の予算で、あれこそ役に立たないんじゃないかという議論をしたわけですけど、あの時ですね、理研の野依理事長から科学技術をおろそかにしていると叱られましたが、それは科学技術の定義を間違っていると思います。あれは道具ですから、科学技術ではない。スパコンの議論、技術とかそのための道具とかすぐに役に立つものにたくさんお金をかけるのであれば、道具のコストパフォーマンスを出せないといけない。一方で、基礎科学のように本当に考えるものであれば、それはパフォーマンスを求めてはいけない。例えば、1000億円以上も道具を作るのに費やすのであれば、1000万円を全国の優秀な科学者を100選んで支給し、成果も報告も求めず、やれと。毎年そうやっていくと10年で1000億円目安になる。私はその方がよっぽど長い目でみれば、ノーベル賞の受賞者が出てくると思います。用途と効果が説明できない1000円の道具に使うよりも、逆に成果を求めないお金があってもいいんじゃないかと思います。先ほどの競争資金の話もそうですけど、逆になっているんじゃないかと思います。ですから、すごく大学が窮屈になった。形式的な報告書を作って、しかもその報告書は文部省も含めて誰も読んでいない。すごい役に立つことを求めた結果、壮大な無駄が作られた。そういうことを考えていると、本当にどっかで根本的な事をやり直す必要があるのかなと思います。今日先生の話を伺っていて、そういうことを改めて感じました。

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